岡山県新見市・本誓寺

岡山県新見市・虎勢山 本誓寺は、永代供養及び水子供養を行う、臨済宗(禅宗)寺院です。

参道十三仏25年5月

仏仏…ブツブツ…ぶつぶつ… 住職の日々の思い、伝え、徒然をぼやきます。
  • ・あなた・あなたまかせ (第8号)  ※石仏・阿弥陀如来

    ・あなた・あなたまかせ (第8号)  ※石仏・阿弥陀如来

     「どちらへご案内しましょうか」「あなたまかせです」など会話をよく耳にします。何かを決めたり、行ったりする時、自分は何もしないで他のものにまかせることを、「あなたまかせ」と言いませんか?実はこの言葉は仏教において、信者が阿弥陀さまの本願にすべてをまかせることをいいます。他力本願と似た意味といえます。阿弥陀さまに自分のすべてをおまかせして、自己の処置を無くしてしまうことです。ところで仏教の彼岸は仏さまの居られるあちら側のせかいです。これに対して此岸は煩悩にさいなまれている私たちのこちら側の世界を指しています。彼岸は彼方、此岸は此方で同じですが、現在は彼方此方はあっちこっちの意味となっています。仏さまの覚りの世界が、彼方、私たちの迷いの世界が此方となります。彼方におられる仏さまが阿弥陀さまになったようです。
     あなたとは阿弥陀さまの別称だったということです。「あなた」は二人称では「きみ」の尊敬語三人称ではあの人の尊敬語になっていますが、自分以外の人を阿弥陀さまと同格にあつかい、「あなた」と呼び尊び敬うのはよいのですが、「あなたまかせ」が自分勝手な逃げ口上にならないように心したいものです。本来の「あなたまかせ」は、自己の考え方を捨てて、一切を阿弥陀さまにお任せすることですから、すごく難しく厳しいものだと思います。本当のあなたまかせができる人は生き仏であると言っても過言ではないでしょう。

  • ・合 掌 (第7号)  石仏・普賢菩薩

    ・合 掌 (第7号)  ※石仏・普賢菩薩

     皆さんは仏さまを拝む時、両手の指を伸ばして手の掌を胸のあたりで合わせると思います。これを合掌といいますが、この合掌の起源をたどるとインドの礼法になっています。仏教によって日本へ伝えられた外国の礼法ではありますが、仏教信仰で深く日本に根づき、仏さまを拝む時ばかりでなく、社会生活また日常生活のなかで人々の間で行われています。特別に感謝する時や、特別にお願いする時に自然体で合掌という動作が出てきます。この合掌は真心を表現する姿といえます。そして合掌は日本人の一般的な礼法に浸透しているといえます。さらにいまでは西洋式の礼法といえる握手がひろまり、その時々の礼儀作法に応じて、それぞれに使い分けがなされています。とにかく礼法は、社会の秩序を保ち人間相互の交際を順調にするために、人の守るべき動作であり、どんな動作で礼をするかにより、その人の心を表わすことになります。 「右仏、左我ぞと合わす手の、内に生まれる我が心」 日頃から、常に真心ある合掌のできる人間になりたいものです。

  • ・愚 痴(ぐち) (第6号) ※地蔵さんは参道の入り口におられます。

    ・愚 痴(ぐち)(第6号)※地蔵さんは参道の入り口におられます。

     愚痴を言う、愚痴になるなどと使われていますが、国語辞典を引いたら「おろかで物の道理がわからず、言ってもかいのないことを言って嘆くこと」と書いてあります。  ところで皆さんは、人間にも毒蛇と同じように毒があると言えば驚かれるでしょうか。愚痴はお釈迦さまが説かれた人間の持つ三つの毒の一つになっています。あと二つは貪欲(どんよく)と瞋(じん)で貪欲とはやたらものをほしがること、瞋はうらみいかることで、人間の身体の中にはこの三種の毒が常に貯蔵されて、いつも出番を待っていると言われています。蜂は毒針で人をさすと、さした蜂自身もその後生きていけなくなるそうですが、人間の毒針(愚痴・毒舌)は相手を苦しめたり、不愉快にしてしまいます。その毒針を出した人間自身も自分の毒にやられ、後ろめたさや後味の悪さが残り、その人間性が問われることになります。そして毒は煩悩の炎を発し、やがて自分自身を焼き尽くす貧しい心の問題となります。仏教入門の基本は修行でこの三毒を滅することのようですが、人間の生命に直接結びつく貧(とん)・瞋(じん)・痴(ち)の三毒はそう簡単には無くなりません。愚かな人と賢い人との違いは、自分が持つこの三毒に気づくか気づかないかにあります。愚かな人は三毒ゆえに悪に走り、しかもその罪を知らず、やめようとせず、罪を知らされるのをいやがるといいます。先ず愚痴を言う前に自分に示された他人の親切に気づき感謝する心が、三毒の一つ愚痴がなくなり、物の道理がわかるようになるのではないでしょうか。皆さんはどのように思われますか?

  • ・おかげさま (第5号)  ※境内の「嫁いらず長寿観音」

    ・おかげさま (第5号)  ※境内の「嫁いらず長寿観音」

     「お元気ですか」「はい、おかげさまで」と言った時の「かげ」とは何でしょう。もちろん「あなたのお力添えで」と同義の「おかげさま」もあるでしょう。でもこの場合はどうやらそうではなさそうですね。人や物事の恩恵をかげというのも、どうもピンときません。ならば、かげとはかげにあって目に見えないもの、つまり神仏やご先祖さまの霊になると思います。日本の宗教は原始以来、祖先崇拝と結びついて、神道や仏教が発達してきました。仏教は本来は祖先崇拝の宗教ではなかったようですが、その日本仏教が直接霊と結びついたのは飛鳥時代に盂蘭盆教典により亡霊を慰めたのが始まりと言われています。お寺では位牌に霊位と書き、先祖供養をしますが、これは仏教で死者も証覚の仏位と見なし、衆生に本来具わる仏性の霊光をさらに光らせて、冥路の厄難を救うと言う意味があるようです。お盆に、今では少なくなった精霊棚をかざりご先祖の霊を迎える習慣は、尊い行事と言えます。神仏、ご先祖さま、三界万霊は皆さまざまな御利益を私たちに授けてくださると言うことから、本当におかげさまです、有り難いことです。どうやらこのあたりからが語源と考えらえます。

  • ・殺 生 (第4号)  ※参道で説法中の石仏「釈迦牟尼世尊」

    ・殺 生 (第4号)  ※参道で説法中の石仏「釈迦牟尼世尊」

     人からつらい事を云われたり、強いられたりすると「そんな殺生なことは言わないでほしい」と頼んだり、可哀そうな話しを聞くと「それは殺生だ」などと使っています。殺生とは生き物を殺す、ということで、仏教では重大な罪であり、不殺生戒は第一番目の戒律になっています。しかしこの世の生物界は残念ながら肉食、草食で毎日殺生を繰り返さなければ生きて行くことができません。両方を兼ねている人間界も同じ殺生を重ねています。しかし、ここで人間と動物に大きな違いがあります、動物は自分が生きて行くに十分な満腹感があれば殺生はしません。ところが人間は自分に命を維持することとは関係なく、最近では無益な人間が人間を殺す、しかも保険金目的から通り魔等、無差別殺人まで、現れる始末です。万物の霊長だなどといいながら、人間ほど恐ろしい下等な動物はないというとこまで達しました。人間が動物以下とは最悪と云えます、人間同志の殺しあいはもちろん、他の動物に対する殺生も必要悪の範囲で可能な限りつつしみ、多くの命に育くまれている我が命を無駄に過ごすことなく、毎日精進したいものです。

  • ・他力本願 (第3号)

    ・他力本願 (第3号)

     会話などによく出てくる他力本願は、「他に頼って事をなす」という意味に使われているようです。「他力本願ではだめだよ、自分でやらなきゃ」まあこんな調子ですね。しかし本来の意味はそんな簡単なものではないのです。「自分のおろかさに気づき、阿弥陀仏の力、つまり絶対的な他力で成仏する」ことが本来の他力本願のようです。他力に頼ることは悪い事ではありません。他力に対して禅宗では、修行すること、叉日常生活では精進努力することを自力と言っています。この世の苦から自力で脱出するか、他力を願って脱出するか、それは自分自身の心の問題であり、意外と自力と他力が合わされれば、さらに大きな力になるかもしれません。

  • ・自業自得 (第2号)

    ・自業自得 (第2号)

     「こんな目にあうのも自業自得だ」などと使い、自分の業は自分でその報いを受けるという意味があるようです。業とは、人間が為す行為になり、体での動作、口での言葉、心に思う考えの三つをさして、これが身口意の三業と云われています。この身口意の三業は因果関係とつながっていて、無限の過去から無限の未来へと伸びています。そして悪い業が原因となれば悪い結果、善い業が原因となれば善い結果がその報いとなり、輪廻しているようです。私たちがその報いを受ける時期は三つあり、すぐ受ける場合、しばらくして受ける場合、忘れた頃受ける場合とがあるようです。例えば、酒を飲むとすぐ赤くなり、飲酒運転で罰則を受ける等は一つ目の例でしょう。また、歯磨きせず虫歯になったり、若い頃の不節制が老後にたたったりするのは、二つ目、三つ目の例になるでしょう。とにかく善業、悪業の報いは必ず受けることになります。善い報いを受けるためには、元気に生きているうちに、是非よいことを積み重ねましょう。積立貯金は後に受ける程、多くなります。

  • ・因 縁 (第1号)

    ・因 縁 (第1号)

     私達は何かあったら、「これも何かの因縁」でしょうと、何気無く使っているこの言葉は深い教えと意味があるようです。因縁は神様、仏様の意思で左右されるものでもなく、人間のすき勝手で動くものでもなく、因縁の因は直接原因をさし、縁は間接原因をさしています。そしてその因と縁がもとになって結果を生じます。春に種をまくことは因縁の因です。その種を育て、手入れすることは因縁の縁です。そして秋の実りという結果を生じます。また、その実りを翌春まけば即、次の原因となります。このように因・縁・果が繰り返されているこの世の大法則を因果律といいます。達磨大師は、「結果自然成」という言葉を残されています。善い原因から善い結果、悪い原因からは悪い結果が出ます。いま、私たちのやっていることが将来は必ずや、善い果報につながるように、常日頃努力して生き続けたいものです。