「観音普門品」というお経 の始めに、お釈迦さまが菩薩の問いにお答えになって、「衆生ありて、諸々の苦悩を受けんに、是の観世音菩薩を聞いて、一心に名を称えなば、観世音菩薩、即時にその音声を観じて、皆解脱することを得さしめん」と言われています。”観世音菩薩を聞いて”とは信じるということ。”解脱”とは縛られた状態から自由になる、解放されるという意味です。観音さまを念じて一心称名すれば、その声が観音さまに届き、それが強いほど受け止める観音さまの慈悲が深くなり、無心へと導かれると言われています。
中国の仏印禅師は「信心というものは他のものを信心するようじゃいけない。自分で自分を信心するから信心というのです。観音さまは観音さまを信心なさるがよろしい」と説かれています。それは苦しむが故に一心に観音さまを称えるとき、観音菩薩の慈悲心と官応して無心に至り、ついには観音菩薩そのままの大慈悲心を頂載し、その身に備えることが出来るのです。多くの人々は、元来、菩薩の慈悲という尊い心を持ち合わせているにもかかわらず、常にそれを知らず、煩悩、妄想、に惑わされて、自分の都合の良いことばかり考え、念じて暮らしています。そんな欲張りを一切捨て去って、観音さまを念じるならば、そこに真実の救いが得られ、また、他にも救わんとする大慈悲心に覚めることができるのだという仏印禅師のお言葉であります。
観音さまは、慈悲の仏さまとして信仰され、世を救い、人を助けてくださる情け深い仏さまです。当寺の観音さまは聖観世音菩薩です。左手に仏さまの「蓮」(はす)の「華」(はな)とされる、つぼみの「蓮華」(れんげ)を持っておられます。つぼみの蓮華は仏さまの慈悲に目ざめた段階とされ、観音さまを信心すれば、人はこの世の苦しみから救われて、これから花が開いて極楽浄土に迎えられるという意味があります。そして蓮華はこの世を天国そのものにすることを象徴する神聖な花とされ、天国すなわち浄土(仏国土)となります。「十句観音経」に「観世音、南無仏」とあります。ただひたすら一心に”観世音”とその名をお称えする時、感応道交、人と観音さまの念が通じあって、称える人をして”南無仏”観音となると示されて、ついには観世音菩薩そのままの大慈悲心を頂き、その身に備えることができるとされています。
この観音さまは壇信徒の御姉弟2人によって、寄進建立されました。観音さまの慈悲に目ざめ、清らかで幸せに満ちた余生を送日して、蓮華の花が開く極楽浄土へ迎えられることを祈念して「長寿観音さま」と命名されたものです。
※観音さまは中国自動車道に面して建立されています。
如意とは、「意」の「如」くなる、すなわち、思いのままになるという言葉で、なんでも願いごとがかなうことからきている。基本的な観音さまは聖観音と呼ばれ、初期の観音さまはすべて聖観世音菩薩であったとされるが、仏教の密教化によって、利益が多様化するようになり、観音菩薩の性格、役割が強調されるイメージの、変化観音(十一面観音、千手観音、馬頭観音等)が現れた。
当寺の如意輪観音の形は六臂像(ろっぴぞう)と云われ、左足の裏に右足を重ねて右膝を立てて座り、右の一手で頬杖をつき、左の一手を台座上につく、一見くつろいだ姿勢で坐る。右の他手は胸の前で宝珠を載せ、左は肩のあたりで輪宝を捧げる。教典によれば、如意輪観音の功徳は世間(俗世間)の財、出世間(出家)の財ともに満足させることにあるという。世間の財とは金銀などの宝、出世間の財とは福徳智慧のことを指すと言われている。宝珠と法輪を略して如意輪として、意のままに無数の珍宝を出す如意宝珠に、煩悩を破壊する法輪の威力をくわえて、災害や病気を取り除く息災法で盛んに修され、密教寺院では秘蔵の本尊として重要視されて、如意輪観音信仰となっている。
(仏像は真言宗寺院、利済寺合併時に移転されたもの)